私の祖父が3年前に亡くなりました。
祖父の家は代々、仏教の宗派なのですが、祖父は新思考の人で、
「自分が死んでも葬式は必要ない。僧侶を呼ばなくてよい。家族だけで斎場で送ってくれればいい」
と言っていたそうです。
祖父は仏教をいろいろと研究していたようで、行きついた答えは、
「僧侶や、それに類する人によって引導を渡してもらわなければ成仏しないとか、
地獄に落ちるといった考えは仏教とは関係ない」
ということだったそうです。
先祖への供養のために、僧侶に多額の金を払ったり、ありがたい戒名をもらうために
何十万、何百万という金を差し出すことはナンセンスだと祖父は思っていたようです。
そもそも、葬儀に僧侶が来るというあり方は、室町時代から始まったようで、
江戸時代の寺檀制度によって定着したものと思われます。
祖父が考えていたのは、故人の成仏、不成仏を決めるのは、故人そのものであると。
故人が生前、どう生きたかが成仏するかどうかを決めるというものだったそうです。
「どう生きたか」とは、他人に迷惑をかけることなく、思いやりと感謝の気持ちを常にもって、
他人のために、社会のために、というのが御仏の心にかなった生き方であり、
そうした生き方をすれば間違いなく成仏すると。
反対に、人の悪口を言ったり、人を陥れたり、物を盗んだり、
他人を傷つけたりすれば成仏しないということです。
日本の仏教が隆盛してきたのは、この「先祖供養」には僧侶の力が必要、
という考え方が広まったからではないでしょうか。
人々は、大事な先祖があの世で苦しんでは可哀想だと、僧侶に多額の布施を包み、
長い戒名をつけてもらい、塔婆を書いてもらい、毎年、法事で読経してもらったきたわけです。
しかしこれが、僧侶を金満体質にし、ぜいたくな暮らしをさせ、
「坊主丸儲け」という言葉を生み出したのです。
釈迦は、必ずしも僧侶が葬儀に出なければならないとは言っていないそうです。
僧侶は葬儀や法事のために存在するのではなく、
人々が日常的に、「より良く生きる」ために導く役目をもっていたはずなのです。
結論からいうと、故人のために、子孫が供養するというのは意味がないのではないかと思います。
子孫が、立派なお墓を立てたり、偉いお坊さんを呼んでありがたいお経を読んでもらったり、
高額の戒名料を支払うことが、先祖の安穏を約束するものではないのだろうと。
そんな気がします。
それよりもむしろ、先祖の徳に恥じない生き方を子孫がすることが、
先祖に報いることであり、先祖も喜ぶのではないかと思います。