私の実家は熱心な仏教徒であり、毎日夕食時間前にお経を読み、
先祖へ感謝の気持ちを表してから夕食を頂きます。
そのような熱心な仏教徒の家庭に育ちましたが、
大学時代にキリスト教学を専攻したことをきっかけにキリスト教に興味を持ち、
私はキリスト教徒になりました。
それによって、先祖供養に関する考え方が家族と大きく異なり、
一時期大きな問題となっておりました。
私はキリスト教徒になってから、仏壇はただの「モノ」であると考えるようになり、
そこには何も存在していない。
つまり、ご先祖様はそこに存在していないと考えるようになりました。
一方で家族は熱心な仏教徒であるため、仏壇はご先祖様の場所の一つであり、
重要な意味を持つと考えておりました。
そして、長男である者がそれを受け継いでいくと考えており、
次世代を担うのは私であると考えておりました。
しかしある日のこと、私はキリスト教徒になったことを告げ、
仏壇はただの「モノ」であり、ご先祖様のことは神様に委ねるべきだと話しました。
それを機に、仏壇をめぐって大きな争いになりました。
私は仏壇を破棄するべきだと両親に告げましたが、
両親はそれは「ご先祖様を見捨てることである」ときっぱり否定しました。
両親にとってはご先祖様への供養の気持ちがなく、感謝の気持ちが全くないと感じたのでしょう。
それに関しては相手の立場に立てば分かるため、
私はキリスト教の考えるご先祖様に対する供養の概念を丁寧に説明して、
決してご先祖様に対する供養の気持ちがないというわけではないということを伝えました。
それでも、どうしても仏壇にお参りもせず、
それどころか仏壇を破棄することを受け入れられなかった両親でしたが、
最終的には永代供養という形でまとまりました。
キリスト教の考え方は理解できるが、仏教徒の家に生まれた以上、
責任は果たして欲しいということで、その形として永代供養にまとまりました。
永代供養をする代わりに仏壇を破棄するといった、キリスト教側の私の考えと、
熱心な仏教徒側の両親の考えを、両方考慮した形がこれだったのです。
この経験より、宗教の自由が保障されている限り、
どのような宗教に属するのも本人の自由だが、
ご先祖様を供養する気持ちがあるのならば、生まれた家の宗教を尊重して、
何らかの譲歩が必要であるということを感じました。
現在は宗教の価値観の違いはあるものの、ご先祖様を供養する気持ちは共通しているため、
ご先祖様を思い共通の話題を共有することで、穏やかに過ごしております。