「供養」という行為の根底にある大切なもの

祖父が亡くなり、もう二十年以上経とうとしています。

しかし、我が家では、毎日のお花、ご飯、お茶などをお供えし、

そこに祖父がいるかのように、みんな仏壇に語りかけています。

 

ある日、親戚の法要で、同じ宗派のお坊様がこんなことを説法として私達に言いました。

「よくお盆には、みなさん、仏様が帰って来られるといいますが、

我々の宗派○○宗では、お盆に仏様は帰って来られません。」

それを聞いた誰もが絶句してしまいました。

ずっと帰ってきていると思っていた祖母などは、お盆になると果物をはじめ多くのお供えをし、

迎え火に送り火をしていたからです。

その説法を聞いたとき、心がむなしくなりましたが、私達家族は考えを変えることにしました。

 

「いつ帰ってきた」などは基準にしなくてもいいと。

それよりも、どこかで耳をすましている祖父に常に語りかけようという話になりました。

人は肉体が滅びることで、一度「死」を体験します。

ですが、その人が「この世で生きてきたこと」を周りの人が忘れずに、

ふと思い出しては話題にあげることで、その人は行き続けることができると私達は思うようにしました。

思い出してもらえなくなったときが、本当にその人にとっての「死」なのかもしれません。

ですから、日々、生前生きていた時と同じように語りかけるように仏壇の前で手を合わしています。

 

私達は本当はお墓を作りたかったのですが、長男である叔父さんが転勤族で、

なかなか墓守が厳しいというのが現状でしたので、

お墓を作らずにお寺に永代供養していただくという道を選びました。

しかし、納骨しているお寺が遠く、最近では年老いた祖母にとって、

毎回参拝にいくことが厳しくなってまいりました。

 

そんな祖母は仏壇に手を合わせながら、祖父の写真を眺めては「ごめんね、ごめんね」と言います。

祖母のそんな姿をみて、私達若い者たちにとっては「合理的」などといったことを理由に

お墓を作らなかったことを、大変申し訳なく思う今日この頃です。

 

「お墓」を作るということは、見栄などではなく、昔の人たちにとっては「お墓」の存在を大切にして、

ご先祖さまたちとのつながりに、日々感謝していたのだということにも気づかされました。

また、「お墓」の存在は、ご先祖さまたちの築いてきてくれた道(家系)に恥じぬよう、

襟を正して生きねばと思わせてくれる大きな存在だったのではないかと私は思いました。

今、どうしても簡略化の傾向にありますが、形式を簡略化しても、

心の持ちようまでもを軽くしてはいけないと改めて考えさせられました。

ご家庭で先祖供養を

私は現在40代ですが、現在同年代の方でも自宅にお仏壇を置いている人は本当にまれになりました。

私の世代は幼いころは祖父や祖母と同居している家族が多く、遊びに行けばどの家にもその当時はお仏壇があったように思います。

またお盆、お彼岸と言うと我が家にもお坊さんがいらっしゃってお仏壇を拝んでくれました。

そんな風景はその当時はある意味当たり前のように感じていましたが今の時代は違ってきているようです。

続きを読む




先祖供養 関連記事


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

コメント

お名前 *

ウェブサイトURL